こんぺいとう  平成24年度 
《詩》 はと  クロイドン 小2
 コウコウコウ
 道の真ん中で
 パンくずをつついている
 
 コウコウコウ
 十羽のはとが
 楽しそうにトコトコ歩いている

 パンパンパン
 ぼくが手をたたくと
 みんな真っ青な顔になって

 バタバタバタ
 とんでにげた
【評】 いいですね。鳩の様子は、全くその通りです。「真っ青な顔になって、バタバタバタとんでにげた」というところが先生は好きです。

《紹介文》 ウナギのなぞを追って  フィンチリー 小4
 みなさんは、ウナギがどこから来ているのか、どこで産まれているのか知っていますか。レプトセファルス、という言葉を聞いたことがありますか。
 私たちが食品として食べているウナギは、実は二千キロメートルもはなれた海で産まれ、長きょりを海流で流され、日本にたどり着くのです。ウナギの赤ちゃんは、レプトセファルスとよばれ、白いやなぎの葉のような形をしています。マリアナの海を通って、北赤道海流に流されて、やっと日本にたどり着くのです。私は、ウナギがこんな大ぼうけんをして日本にたどり着く、ということなんか考えたこともありませんでした。こんな身近な食べ物が、こんなにすごい生きものだと知って、おどろきました。
 私は、この文章の筆者が一番さいしょに調査を始めたときから、たまごを産む場所が分かるまで七十年以上かかった、と書いてあるのを見たとき、びっくりしました。こんなに長くかかるとは、思ってもみませんでした。みなさんも、読んでみてください。
【評】 本文の要約を取り入れ、読み手の興味を引きつける工夫をして書くことができました。

《作文》 かまくら  アクトン 小2
 一月一日に、つるがおか八まんぐうのはつもうでに行きました。おとうさんとおかあさんと、おとうとといっしょに行きました。
 まず、おさいせんを入れるときに、四十分ぐらいならびました。わたしは、たいくつだったので、3DSをしていたら、すこしずつすすんでいきました。
 おまいりしたあと、おまもりを買いに行きました。わたしは、ハローキティの絵がついたおまもりにしました。そのあと、おみくじを引きました。わたしは、きょうでした。さいごに、いろいろな色の金ぺいとうとわたがしを買いました。
 かまくらに行くのがひさしぶりだったので、行けてうれしかったです。
【評】 順番を表す言葉を使い、初詣に行ったときの様子が分かりやす  く書けています。日本の初詣の雰囲気が伝わってきました。

 《手紙》 天国にいるちいちゃんへ  アクトン 小3
 ちいちゃん、今、天国で元気でいますか。にげているときは、こわかったでしょう。お兄ちゃんをお母さんがおんぶして、自分でお母さんについていかなければいけなくて、たいへんでしたね。お母さんとはぐれてしまったから、とてもこわくてさびしかったと思います。
 でも、天国に行ってから、お父さんとお母さんとお兄ちゃんに会えてよかったですね。かげおくりをみんなでしたことをおぼえていますか。天国でもみんなでかげおくりをやってください。
 天国では、みんなでしあわせにくらしてくださいね。
【評】 戦争中のちいちゃんの大変さを考えながら手紙が書けました。

 《日記》 わたしのしゅじゅつ  フィンチリー 小2
 先週の水曜日に、わたしは耳とアデノイドのしゅじゅつをしました。びょういんにとても早くついて、かんごしさんと話して、三時間くらいまって、わたしのしゅじゅつになりました。
 しゅじゅつの後すぐのことはおとうさんとおかあさんから聞きました。わたしはよくおぼえていないからです。でも、なんどもきもちわるくなりました。そして、とてもつかれてねむかったです。
 夕がたになって、やっと家にかえりました。学校も一週間休んで、水曜日から行きました。友だちにあえて、とてもうれしかったです。
【評】 大変な手術を、よく頑張りましたね。

 《小論文》 「こころ」の我執  高2
 夏目漱石の小説「こころ」には、我執と言うか、エゴイズム、あるいはそれに由来する罪の問題を一貫したテーマに掲げています。「こころ」の中の先生は自分を意志的に絶対化しようとして、却って自己を破壊してしまう人間というシチュエーションが描かれています。つまり、我執とエゴ、それに由来する罪の問題の解決を、自裁と言うか、自決と言うか、自らの命を奪うという形で、求めようとした人間というものを描いているのです。
 この小説を書く前に漱石は、「それから」そして「門」という、「こころ」と似たような、社会から追放された人間、罪と我執の問題の解決を宗教に求めて、そして求め得なかった人間、といったテーマの小説をすでに出版していたのです。ここから漱石が見出したのは、宗教、狂気、自殺、これがエゴイズムに関する三つの結論なのです。
 私は、「こころ」とは「私」が繰り広げる「閉ざされた自我」という世界であると見ています。ここで挙がるのは、「先生」が持つ「絶対的な倫理を実践して生きる、そういう生き方の問題」だと思います。その絶対倫理とは、ある意味ではこれも「閉ざされた自我」の結果というような形にもなってくると思います。もう少し具体的にいうと、他との交渉のなかでの自己のモラルの形の変化を認めず、自分自身がもっている絶対倫理というものを全うしようとする精神、結局、倫理的なあるべき姿、まさにあるべきこと、まさになすべきことを実践しようとするような生き方、といったものではないかと思います。したがって、彼が持つ一種の「明治の精神」は、単一の実質を指すものではなくて、生きる形を指すものになってくるかと思います。
 「k」の影におびえ続けた「先生」は「k」に対する罪悪感から、人間の罪という認識に到達するのです。「先生」の犯した裏切りは、孤独な自己否定の果てに自分で自分を殺すこと、死んだように生きていく自己批難を選んだのです。ここで「k」の裏切りは人間の罪にまで普遍化され、再び「先生」の中に潜む罪の感覚として、結果、「先生」の自殺に終わるのです。
 この我執は、いざという場合には友情を忘れ去って罪悪を犯してしまうほど、人間にとって強大な悪である。それは、「k」との関係の中に置かれて次第に明確になり、ふくれ、深刻化し、やがて「私」自身の制御できない状況になって、「私」を追い込んでしまうのです。
 倫理的であろうと、我執に動かされないではいられない人間の姿は、まさに人間の存在そのものを覆う罪というものを、「こころ」の世界は土台として描いているのだと思います。
【評】 「我執」についての○○君の論に、感銘を受けました。

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