こんぺいとう  平成24年度 
《詩》 一秒  クロイドン 小6
 きれいな朝
 お弁当持って
 子どもたちは学校 大人は仕事
 普通に暮らしてる

 でも一秒で 全部変わった

 その朝作ったお弁当は
 たべないまま 焼けこげて まっ黒

 一秒で
 楽しさが終わる 家が燃える 時計が止まる
 千人の人の命がなくなる
 一秒で
【評】 「一秒で・・・」たった一秒で全てが変わってしまった、その恐ろしさが伝わってくる詩に仕上がりましたね。

《日記》 十二月三十日  フィンチリー 小1
 ママとパパとおともだちのかぞくと、はじめてスケートに行った。さいしょは、スケートにいきたくなかった。なぜなら、うまくすべれなくて、こおりの上でころぶといたいとおもったから。ともだちをまっていたときも、スケートぐつの一本しかないはの上にたつのもたいへんだとおもった。
 とうとう、スケートリンクにはいった。こわかったので、ペンギンにつかまっていた。ママがぼくをおして、なんとかいっしゅうすべった。そのあと、だんだんうまくすべれるようになった。さいごはペンギンにつかまらなくてもすべれるようになった。さいごのいっしゅうは、おともだちときょうそうをして、ぼくがかった。とてもたのしかった。
 じてんしゃやスキーも、さいしょはちょっとこわかったけど、いまはうまくできるようになった。スケートにもちょうせんしてよかった。
【評】 勇気を出して挑戦してみることの大切さに、よく気がつきましたね。素晴らしいことです。

《日記》 十二月三十日  フィンチリー 小1
 クリスマスホリデーに、かぞくとドバイにいきました。ぼくは、そこでイルカとあそぶことができました。
 ぼくといっしょにあそんだイルカは、エス2というなまえの、八さいの男の子です。とくいなことは、はやくおよぐことと、たかくジャンプすることです。エス2はいい子なので、ぼくをずっとまっていることができます。ぼくはエス2と、キスとハグをしました。エス2の口はしょっぱくて、からだがすべすべしていて、きもちよかったです。
 イルカをさわったのははじめてで、とてもたのしかったです。またエス2にあいたいです。
【評】 イルカのエス2と、楽しい時間を過ごしたことがよく伝わってきます。また会えたらいいですね。

 《感想文》 「やまなし」を読んで  アクトン 小6
 「やまなし」を初めて読んだとき、不思議に思いました。これは何の話なのか、クラムボンとは何か、そして、「五月」の幻灯と「十二月」の幻灯の違いがどうしても分かりませんでした。しかし、学習を進めていくうちにすべてがはっきりしました。
 クラムボンは作者が作った言葉で、意味は分かりません。でもぼくは、あわだと思います。五月のカニの様子は、「こわい」です。カニはかわせみをおそれ、声も出ず居すくまっていたのです。だけど十二月のカニの様子は、ワクワクしていて、落ちてきたやまなしの後を追って楽しそうでした。
 五月と十二月の幻灯の違い、それは、五月は悲しく、こわい出来事で、十二月は楽しく、平和な出来事ということです。ぼくが思う五月は「死の世界」、そして十二月は「幸せな世界」です。
 作者が伝えたいことを探すことは、とても難しかったです。でも、もしぼくが作者だったらと考えると、自然の世界には楽しいことがあったり、こわいことがあると伝えたかったのではないかと思いました。
 初めて読んだときは、何も分かりませんでした。でも、話をほりさげて深く考えていくうちに、その分からなかったことが分かりました。こうやって学習を進めてやっと分かったことに、ぼくはとてもうれしく思います。
【評】 「分かる」ことへの喜び、楽しさを感じてもらえたようで、先生もとても嬉しいです。

 《小論文》 行かなかった道  高2
 「山月記」に登場する李徴(りちょう)と袁傪(えんさん)は正反対の性格を持ち、その個性が生き方にも反映している。
 最初に、李徴の生き方に注目する。李徴は最終的に虎になり、詩家への道のりも困難の連続であった。詩家になり、成功しようと頑張っても自分の限界にぶち当たり、妻子を養うためかつての同輩の命令を受けなければならなかった。彼は凄まじき才能があると周りから賞賛されていたので、自尊心が高い李徴にとって、昔、共に詩業に励んでいた者たちが自分のレベルを遥かに超える職業に就いているという現状を、唇を噛み締めながら受け入れなければならなかった。そして李徴は他人との接触を避け、世と距離を置き、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」により体が虎へと変化していった。
 一方袁傪は、自分のやりたいことの方向へは進んでいないが、安全で、道に例えれば坂も信号もない、簡潔な人生を歩んでいる。そして着実に力をつけている。彼は他人の指示に従い、それを素直に受け止め、生きている。
 自分であったら袁傪の生き方を選ぶ。李徴の生き方だと、頭を抱え、一人で絶望していることだろう。しかし同時に、目標を持ち、そこへ繋がる道を一途に歩き続ける人生には憧れる。自分がやりたいことをやり、夢を実現させるのも我々の使命であり、生きる意味を知ることも生物として大切だと思う。しかし、社会という厳しい現実を見たら、安定を求め、平穏な人生を送りたいと思う。となると、李徴の生き方は自分の性に合わない。
 袁傪の生き方は、自分の身に何が起こるか把握できるうえ、わざわざ自分の夢を探す必要もない。ただ他人の命令に従えば良いのなら自分は社会と戦わなくて済む。だが、いつでも受け身の人生だと、生きている意義を疑い始めるだろう。ふと立ち止まり「自分の人生なら、あるゴールに向かって進むべきではないか」と考えるかもしれない。
 最後に、ロバート・フロスト作「The Road Not Taken」の最後の部分を紹介したい。
「今から何年も何年も後、どこかで溜息混じりに、私はこう話すだろう。森の中で道がふたつに分かれていて、私は通る人の少ない道を選んだのだ。それがどれだけ大きく私の人生を変えたことか。」 
 この「溜息」は違う道、つまり違う人生を選ばなかったことを後悔しているものかも知れないが、自分の選んだ道に安堵しているのかもしれない。要は、人間は自分の選んだ道に誇りを持つべきだということだ。李徴、袁傪どちらの生き方を選んでも、最終的には自分が選んだ道が自分の人生だということであろう。
【評】 李徴と袁傪の生き方について考えることで、自分自身の人生についても深く考えることができています。