こんぺいとう  平成24年度 
《作文》 はじめてのじゅぎょうさんかん  アクトン 小1
 十一月十七日の二じかんめは、じゅぎょうさんかんでした。みんなのおとうさんとおかあさんがきました。たくさんの人が見ていたので、へんなきもちがしました。 
 ぼくのおたんじょう日をはっぴょうするとき、はずかしかったです。でもまちがえずにいえて、よかったです。
 じゅぎょうさんかんは、あまりすきではないです。
【評】 初めての授業参観。たくさんのお父さん、お母さんが後ろに並んで、緊張したことでしょう。○○君は上手に発表しましたよ。

《感想文》 「よだかの星」を読んで  フィンチリー 小6
「よだかの星」でとう場する人物は、よだか、よだかの弟のかわせみ、たか、お日さま、西の星、東の星、北の星と南の星の八人です。
 ぼくは、この物語が少し「みにくいあひるの子」に似ていると思いました。最初、みにくいよだかが、もっと力強い、美しいたかにもんくを言われるのです。でも、このたかは見た目が美しいだけで、中身はひどいのです。なぜかというと、このたかはよだかのようなみにくい鳥と似た名前がいやなので、よだかに名前をかえろと言うのです。ぼくは、見た目だけで人に好ききらいを言ってはいけないと思うので、これは改めてひどい、自分勝手な行動だと思いました。よだかが、そんなことできるわけがないと言ったので、たかはさらにおこってしまいました。最後にたかは、「いちぞう」と書いてある名札をつけ、鳥たちの家を全部回って新しい名前を伝えないと殺してしまう、と言って家に帰ったのです。
 よだかは、そんなみっともないことはしないと決めて、家出することを弟のかわせみに伝えに行きました。弟は、どうか行かないでくださいとたのんだけれど、よだかは、もう絶対に家出すると決めたのです。
 最初によだかは、お日さままで飛んで燃えてしまいたいと思っていましたが、お日さまは、そんなことをしないで、星まで飛んで星になると良いと教えてくれました。それでよだかは、東西南北の星へ飛んで、星に変えてくださいとたのみました。でも全部の星にことわられてしまいました。だからよだかは、次のすごいことをしたのです。
 よだかは、地面まで落ちてきて自殺をしようと思いましたが、地面に落ちる寸前で逆にバンと全力で上へ上へと飛び上がりました。ずうっと上って行くと、最後は自分の力で美しい、いつまでも光り続ける星になれたのです。よだかは見た目はみにくいが、中身はすごい鳥だから、いつまでも美しいものになりました。僕はこれが「みにくいあひるの子」に似ていると思ったのです。
 最後の場面で、よだかが全力で星になれたのが、僕は一番おもしろく感じたのです。なぜかと言うと、この場面で、よだかの本当の力がみんなに見せられて、弱いと思われていた鳥がすごい星になったのに感動したからです。
 僕はこれから、だれでもすごいことをできるということを習いました。またこの物語から、本当に大切なのは見た目ではなく、中身だと学びました。
【評】 そうですね。見た目がいくらかっこよく、美しいと言われても中身がそうでなければ本当ではないと思います。この作品から、良いことを学びましたね。

《作文》 乗馬  アクトン 小3
 わたしが一番大すきなのは、乗馬です。イーリングライディングスクールに、毎週かよっています。
 さいしょに入ったときは、とてもこわくて、ふるえたりないたりして「もう、やだ。」と言うぐらいいやでした。でも乗ってみると、おだやかで楽しくて、大すきになりました。もう二年も通っています。ふつうは、歩きとジョギングをします。この国ではウォークとテロットといいます。わたしはもう、スキップ、カウンターができるようになりました。
 わたしが、馬がすんでいる馬ごやに、にんじんをもって入ると、みんなけんかになります。馬はかわいくていやされます。だからわたしは、乗馬が大すきなのです。
【評】 内容ごとに段落に分けて、上手にまとめました。どんなに馬が好きか、よく伝わってきます。

 《作文》 安楽死についての思索  クロイドン 中3
 安楽死は、痛みや苦しみを終わらせるように、安らかで楽な死に方を人為的に与えることだ。たとえば、末期がんや耐え難い苦痛を伴う病気の人が、痛みなく第三者の手を借りて死ぬことだ。
 宗教的見地から、命は神様(一神教で言うところの神様)の贈り物で、とても大切なかけがえのないものである。命は神様がくれたものなので、自分や他の人の手によって奪うことは、倫理的にやってはならないことである。それは、神様の言葉と意思に反しているのだ。
 安楽死を認める結果、社会における命の価値を下げることになりかねないという意見もある。合法化されれば、多くの人が希望する事実は避けられない。実際に合法化されたオランダのデータを見ると、二〇一一年に三千六百九十五人が安楽死で命を失った。その数は、年々十五〜二十%ずつ増えている。それは、多くの命の廃棄を意味し、結果的に、一人一人が持っている命を軽く見なすことにつながる。
 安楽死を一度認めたら、後戻りできないことになる。すべての権限と責任が、医師の手にゆだねられる。これは医療に携わる人にとって、大変な負担になる。しかも、死を希望する本人の意思と、家族に負担をかけているという罪悪感を計ることが不可能なので、本当に患者がどこまで死を望んでいるのかを知りようがない。例えば、本人が「自分が生きていることが家族の重荷になっているから死にたい」のであれば、自分の命を犠牲にすることは正当ではない。また、家族から患者に対してプレッシャーを与えていることも考えられる。
 ということから、現実問題として、安楽死を非合法にしておくことに私は賛成であるし、倫理的観点からも、こう思っている人は多い。ただしこれは、安楽死を一個の社会の事象としてみた場合である。でも、安楽死が自分個人の問題としてかぶさってきたらどうだろう。自分が患者の場合、あるいは患者が家族の場合。
 もし自分が全身麻痺になって、機能しているのが脳だけになったとしたら、たぶん死にたいと思うだろう。それでも安楽死に反対なのは、自分のケースは何千人の人の中の一個に過ぎないので、社会全体の規範として、安楽死を非合法のままキープしたいと思うのだ。安楽死の問題はとても重く、軽々しく取り扱ってはならない。生と死の問題だ。生活の質が低いからといって、その人の命の重さが軽くなるわけではない。みんなの命には、同じ価値があると思う。
【評】 客観的データを活用しながら、自分の意見を論理的に説明できています。






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