こんぺいとう   
5月16日 vol.5
《作文》「『あしたこそ』の感想」 フィンチリー 中1

 この詩が表すたんぽぽと春のイメージは、人間の生活と似ていると思います。わたしたちの生活では、春になったら、新しい一年が始まります。たんぽぽも春になったら「わたげがまいあがってとんで」いきます。
 人に会ったらあいさつをするように、たんぽぽのわたげは、地面に着いた場所のまわりにある植物に「たくさんのこんにちはにであい」ます。
 わたしたちは春になると、新しい学校が始まって、新しい人々に出会います。そこで人と人とのつながりが広がって、友達が増えるように、たんぽぽもまわりにある生き物や花や草と友達になっていると思います。
【評】 中学生になって初めての作品です。希望をもって中学生活を始めようという気持ちが伝わってきました。「たくさんのこんにちは」に出会えるといいですね。

《詩》「春」 クロイドン 中2

 いつのまにか咲いていたりんごの白い花
 木のうしろで薄紫の忘れな草が
 こっそりとのぞいている

 しらないうちに背が高くなっていた緑の草
 その中から笑顔を見せる黄色いたんぽぽ

 風に運ばれて桃色の花びらがゆるやかに踊る

 わたしの庭に春の色たちがやってきた
【評】 擬人法をうまく使って色鮮やかな春を表現することができました。

《小論文》「真の知識について」 アクトン 旧高2

 この世には、様々な知識が存在する。特に今の情報社会と呼ばれるほどに情報伝達が発達した社会では、手に入らない知識はほとんど無い。しかしこの知識は、情報の媒体を通して手に入れたものである。実際に自分の手で触り、五感で認識した情報ではない。情報の媒体を通し、視覚と聴覚の二感でしか、感じていない他人から分けてもらった知識である。知識とは、自分の体験や経験を生かし、自分で培った自分だけの情報である。つまり情報媒体を通して伝わった情報は、他人の経験を擬似的に経験し、それをあたかも自分の経験であるかのように処理し、自分の知識として扱っているだけなのである。
 このように実は自分の持っている知識として認識している知識の多くは、実は自分の知識ではない。となると、自分の経験や体験に基づいて引き出された結論や思想だけが真の知識なのか。
 それは否だろう。自分の体験や経験に基づいた知識はあくまで表層的に接したり、一面的な価値観からとらえたりしたものの一端に過ぎない。例えるのなら、海面から出ている氷山の一部を見てすべてを知ったかのような気になっているだけである。人と人との付き合いで、人は好意をもっている人にはある一面を見せ、嫌いな人には別の一面を見せる。時と場合によって、人がほかの人に見せる表層は、服装のように変わる。そしてそのすべての表層が見えたとして、その内面にあるものを見せてくれなければ、その人を本当に理解することはできない。そしてその人自身、自分の内面を完全に知っているとは言えない。つまりほかの人に関して、完全な知識は得られない。これはほかのことにも共通することで、何ものに関しても絶対的な知識は得られないのである。
 ここで「真の知識」とただの「知識」の違いが気になってくる。知識とは、右に説明したとおり、自身の体験や経験で得た結論等である。しかし、それに対する「真の知識」とは、いったいどういうものなのか。
 この質問の答えは、十人十色だろう。だが私が思うには「真の知識」というものは、そのものの表層だけでなく、そのものの本質自体を完全につかみ、すべてを理解することだ。それは簡単のようでいて、とても難しいことである。例えば、誰かに富士山の話をすると「日本で一番高い山」と言えば、誰でも分かる。しかし富士山を見て感じることは、みんな違う。このように考えると、人によって違う考えを正確に理解することで「真の知識」は得られると私は思う。もっとも「真の知識」は、人間にはとうていなしえない境地である。神にすら可能なのかも分からない。
【評】 「真の知識」と経験や体験に基づいた「知識」の相違について詳しく説明していますね。この小論文が鋭いのは、ただ相違を分析するにとどまらず、経験や体験に基づいた「知識」も一面的なものだとしているところです。論文自体の構成も非常に論理的です。

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